はまぎんパートナーズ・ストーリー04 – 𠮷田観賞魚販売株式会社

たくさんの困難を乗り越えて
発展させた会社を、次の世代に
安心して引き継いで欲しい。

錦鯉や金魚などの観賞魚の販売をはじめ、園芸専門店や
ガーデニング工事の設計施工などを手掛ける𠮷田観賞魚
販売株式会社(東京都八王子市)は、2021年に創業100年
を迎えた、地域の「顔」とも呼べる存在です。
若くして家業を継ぎ、大きく事業を発展させた
𠮷田俊一氏には、地元やお客さま、
そして次世代への尽きない
想いがありました。

今回のソリューション「ホールディングス会社方式による財務再構築および事業承継」を見る

「水と共に100年。𠮷田家の挑戦は、
一匹の鯉から始まりました」

どのような事業をおこなっている会社なのか、お聞かせください。

𠮷田社長 私どもの会社のルーツは、1921年(大正10年)、祖父の𠮷田定一が井戸を掘って食用の鯉の養殖を始めたことに遡ります。当時は、水が出たら米の栽培でも始めるのが普通です。しかしそうはせずに、魚の養殖とは縁のない場所に池を作って養魚場を始めたというのは、元来新しいもの好きで、人と同じことをするのが嫌いな祖父の性格によるところが大きかったのではないでしょうか。
この養魚場を発展させたのが、定一の三男で私の父の広(ひろし)です。昭和20年代末から金魚の仕入れを始め、続いて錦鯉を扱うようになり、1964年(昭和39年)に𠮷田観賞魚販売株式会社を設立しました。1966年(昭和41年)には西東京観賞魚市場が開設され、錦鯉がブームになったこともあって、当時新潟から仕入れてきた約2000万円の錦鯉がトラックから降ろす間もなく飛ぶように売れて行った光景を、今でも鮮明に覚えていますよ。
父は1972年(昭和47年)に緑化事業部の「八王子グリーンセンター」も設立しました。ガーデニングがブームになったのは1990年代後半ですから、だいぶ時代を先取りしていましたよね。そして1980年代から錦鯉や金魚以外にも観賞魚の取り扱いを開始し、他社に先駆けて錦鯉の輸出も始めました。輸送方法などで相当苦労しましたが、諦めずに実現できたことが今の海外での錦鯉人気につながっていると思います。

𠮷田観賞魚販売株式会社 𠮷田 俊一 代表取締役会長イメージ

代表取締役

𠮷田 俊一(よしだ しゅんいち)

1957年生まれ。大学を卒業後、小売業界国内首位の大手企業に就職。1990年、先代の死去に伴い3代目社長に就任。1997年に観賞魚専門店「ヨシダフィッシュファームズ」、園芸専門店「グリーンギャラリーガーデンズ」を開店。コロナ禍の2021年に創業100周年を迎える。日本観賞魚振興事業協同組合理事長、一般社団法人全日本錦鯉振興会副理事長。

「次々と襲いかかる試練。それでも前を向くことをやめなかった」

𠮷田社長が社長になられてからも、経営的にさまざまなご苦労があったかと思います。
苦しい時期をどのようにして乗り越えられてきたのでしょうか。

𠮷田社長 一番大変だったのが、2006年に鯉ヘルペスが発症したことですね。丹精込めて育てた鯉を、在庫金額で約1億円分も処分しなければならないことになって。自分が好きで仕入れた鯉ばかりでしたから、売り上げ的にはもちろん、精神的にもかなりこたえました。
𠮷田観賞魚販売株式会社 インタビューイメージ それでも私は、どんな時でも仕事は楽しんでやることを常に心がけてきました。自分が楽しくなければ、お客さまも楽しくありませんからね。頑張れば頑張った分だけ、見返りは必ずあるはずだと。苦しい時期もそんな想いで乗り越えてきました。
ただ、8年ほど前に身体を壊した時はさすがにまいりました。若い頃、夜中に車で鯉の産地の新潟まで出かけて行って、日帰りで帰ってくるなんてことをしょっちゅうやっていましたので、長年の無理がたたったんでしょう。結局入院してしまったのですが、ちょうどその頃、横浜や八王子で「都市緑化フェア」というのをやっていて、うちの会社も八王子市のメインガーデンやウェルカムゲートなどを担当したんです。しかし、残念ながら利益的には大きな赤字を出してしまいました。これはいよいよなんとかしなければいけないということになり、横浜銀行さんにご紹介いただいたコンサル会社の方の助言を受けて、採算管理を徹底することから財務の改善に着手しました。 𠮷田観賞魚販売株式会社 インタビューイメージ

土井(横浜銀行) 俊一社長の手腕で事業を拡大し、数々の困難を乗り越えてこられた𠮷田観賞魚販売様ですが、当時は売り上げを重視するあまり、利益を顧みない面があったかと思います。不採算店舗については厳しいご決断を求めることもあり、当行担当者も心苦しい想いをしながら社長のもとに足を運んでいた時期だったと聞いております。 𠮷田社長 入院している時にベッドの上で考えたんですよ。「あぁ、こんなに赤字が出ているような状況では、次の世代に安心して会社を引き継げないなぁ」と。まだ祖父が生きていて、鯉を仕入れたら飛ぶように売れていた頃、お金をどんぶりに入れた水で指を濡らしながら数えて、大きな鯉用のビニール袋に入れていたのを覚えていましてね。文字通りうちは、「どんぶり勘定」をやってしまっていたんです。細かい数字に、あまりに無頓着だった。身体を壊して初めて気づいたというのはお恥ずかしい限りですが、私にとって本当に大きな転換点になったと思います。

横浜銀行 相模原・橋本エリア 法人渉外課 土井 岳 課長代理イメージ

横浜銀行 相模原・橋本エリア
法人渉外課 課長代理

土井 岳(どい がく)

2015年横浜銀行入行。綱島支店で勤務した後、法人渉外へのキャリアチェンジを実施。港北ニュータウン南支店を経て2022年8月相模原駅前支店へ着任。お客さまに対して幅広いソリューションの提案ができる行員を認定する横浜銀行の行内認定制度、シニア・ソリューション・コンサルタント(通称SSC)に認定されている。

「ホールディングス化で、
次の100年への道筋ができました」

今回横浜銀行からスキームを提案するに至った経緯や、その内容についてお教えください。

𠮷田社長 コンサル会社さんと採算管理に取り組んだり、資産の見直しなどを徹底的におこなった結果、その翌年から早々に黒字を出すことができました。逆に言えば、それだけ伸び代があったということで、もっと早くやっていれば財務が悪化することもなかったと後悔しました。ただ黒字化した後も借入れ金利はずっと高いままだったので、なんとかならないかと土井さんに相談を持ちかけたんです。 土井(横浜銀行) 確かに業績が上向いている中で、お借入れ金利について社長が不満をお持ちになるのもごもっともだと思います。ただその背景には、過去の鯉ヘルペスによる損失や、店舗拡大時の不採算がまだ蓄積していたことで、貸借対照表のバランスが整理されていなかったという事情がありました。金利を下げたいというのが社長のご要望でしたが、ただ金利を下げるだけでは、それで終わってしまいます。100年続いた企業が、次の100年に向けて歩み出すというステージで、今後も安心して事業に取り組んでいただけるような金融の環境を根本から整えられないかという想いで検討を始め、ホールディングス化をご提案させていただきました。 𠮷田観賞魚販売株式会社 𠮷田 俊一 代表取締役会長イメージ 𠮷田社長 ホールディングス化を実現したことで、まず会社の財務がきれいな形に整いました。さらに会社の資産と私個人としての資産をきっちり分けることで、私が元気なうちに事業承継の形を整えることができたことは大きかったですね。私自身、より前向きな気持ちで経営の舵取りができるようになりましたし、きっと次の世代も前向きな気持ちで取り組むことができるでしょう。綺麗事ではなく、私にとってスタッフ全員が「家族」ですから、その家族に対して財務に関しても事業承継についてもすべてきれいにしてオープンにできたことは、ご提案いただいた横浜銀行さんやご協力いただいたコンサル会社さんに、非常に感謝しています。

土井(横浜銀行) どのような提案が𠮷田観賞魚販売様にとって一番魅力的か、行内でさまざまなパターンを検証したうえでご提案させていただきました。ホールディングス化から1年が経ちましたが、やってよかったと思っていただけていたら、私も嬉しく思います。

「地元のため、お客さまのため、
これからもお役に立つ存在であり続けたい」

𠮷田観賞魚販売様は、2014年に始められた「大栗川キャンドルリバー」やレストラン「Au coju(オコジュ)」での交流会など、
地元の方々と積極的に交流を図っていらっしゃいますが、そこにはどのような想いがあるのでしょうか。

𠮷田社長 2014年は私が生まれ育った旧由木(ゆぎ)村が八王子になって、ちょうど50年という節目の年でした。多摩ニュータウンの開発で街は大いに発展しましたが、長く住む住民と新しく住まわれた方たちとの交流があまりないまま、半世紀が経過してしまいました。 𠮷田観賞魚販売株式会社 インタビューイメージ 自治体による記念イベントなどもおこなわれず残念な気持ちでいましたので、それなら自分たちでやろうと思い立ち、大栗川公園をメイン会場に緑道沿いに地元の住民で3万個のキャンドルを灯すイベントを企画したのです。
「Au coju(オコジュ)」でやっている交流会もまったく同じ想いです。由木村の「由」と大栗川の「栗」を合わせて「由栗(ゆっくり)交流会」と名付けました。あわてずいそがず、ゆっくり住民の輪を広げていこうと思っています。 やはり商売の基本はお客さまに喜んでいただくことですから、その前段階として地域がより元気になる必要があります。これからも絆とご縁を大切に、大好きな地元に恩返しをしながら、お客さまにもっと楽しんでいただけるよう出会いの場の提供を続けていきたいですね。
𠮷田観賞魚販売株式会社 インタビューイメージ 土井(横浜銀行) ご縁といえば、だいぶ世代は開いていますが、𠮷田社長と私は同じ大学の先輩・後輩という間柄です。さらに𠮷田社長とお話ししている中で、社長が勤めていらっしゃった会社が私の父と偶然にも同じだったということも判明し、不思議なつながりを感じております。 𠮷田社長 そんな共通点があってか、土井さんがご担当になってから横浜銀行さんとの関係もすごくよくなっていった気がします。やはり、ご縁というのはあるんですね。

「次の夢に向けて、横浜銀行さんに
ますます期待しています」

今後横浜銀行として、𠮷田観賞魚販売様をどのように支援して行くつもりでしょうか。

土井(横浜銀行) 私自身、𠮷田観賞魚販売様のお店のファンであると同時に、𠮷田社長のファンでもあります。コロナ禍にYouTubeチャンネルを開設して、巣ごもり需要をとらえて売り上げを伸ばされたのは実に見事だったと思いますし、それも𠮷田社長の前向きな姿勢があったからこそです。私も𠮷田社長にお会いするたび、その言葉一つひとつに前向きなパワーをいただいております。 𠮷田観賞魚販売株式会社 インタビューイメージ ホールディングス化を実現し、しばらくは安心して事業に専念いただけるフェーズに入っていらっしゃると思いますが、必要な設備投資などあれば、いつでも柔軟にご協力をさせていただくつもりです。次の100年に向けて、引き続きメインバンクとしてお選びいただけるよう当たり前のことを当たり前にやっていきながら、情報提供を含めて丁寧に寄り添っていきたいと考えています。
私は、𠮷田社長が思い描いていらっしゃる次の「夢」の話を伺う時間が好きです。銀行員人生の中でずっとご担当させていただくことはできませんが、自分がいる間に、社長の夢が動き出すお手伝いをしたいということが、私の今の目標になっています。 𠮷田観賞魚販売株式会社 インタビューイメージ

𠮷田社長 土井さんの想いを聞かせていただいて、とてもありがたく、心強く感じます。今力を入れているのは、メダカのプロモーションです。メダカにも色も柄もさまざまな種類があって、錦鯉が「泳ぐ芸術品」なら、メダカは「泳ぐ宝石」と言っても過言ではありません。シンガポールや香港などでとても人気があり、今年はオランダでもイベントがおこなわれる予定です。また先ほど土井さんが次の「夢」とおっしゃっていましたが、ゆくゆくはガーデンのテーマパークのようなものをつくれたらと考えているんです。その夢がいつ実現できるかわかりませんが、新しいことをやるにしても一番大切なのは人ですから、もっともっとスタッフがいきいきと働ける会社にしていかなければなりません。横浜銀行さんにはぜひ今後も人材の面でも財務の面でも、さまざまな形でアドバイスやお力添えをいただきたいと思います。

※インタビュー内容は2025年3月の取材に基づいています。記事内容および所属は取材当時のものです。

今回のソリューションホールディングス会社方式による財務再構築および事業承継

ホールディングス会社方式による財務再構築および事業承継

解説 創業家が持つ株式を移転して新設会社(YFFホールディングス)を設立し、𠮷田観賞魚販売(株)は新設会社の完全子会社に(Phase1)。その後、𠮷田観賞魚販売(株)が所有する不動産を新設会社に売却する際、横浜銀行から新設会社に不動産取得資金を融資(Phase2)。𠮷田観賞魚販売(株)に対しては、不動産の移転をきっかけにした財務の再構築を、テーラーメイド融資で支援しました。

企業情報

会社名
𠮷田観賞魚販売株式会社
代表者
代表取締役 𠮷田 俊一
所在地
東京都八王子市松木13番地1
創業
1921年
事業内容
園芸植物・栽培用品・観賞魚・飼育用品の販売、ガーデニング工事設計施工、
生鮮野菜・食品雑貨の販売、レストランの運営

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